リタさん、キリスト者の自由って何ですか
それは押さえておきたいポイントね。
わたしなりにまとめてみたのでぜひ参考にしてね
キリスト者の自由が意味すること
ヨハネによる福音書8章に、主イエスがご自分を信じるユダヤ人たちに語られた次のような言葉があります。
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。……もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」
ーヨハネによる福音書8章31、32、36、新共同訳聖書
主イエスに従う人は、その方が与えてくださる自由を愛し、大切にし、最後まで守ります。それはどんな自由でしょうか。
- モーセの律法からの自由だけでなく、律法を守るという概念そのものからの自由
- 神に対する罪悪感からの自由
- 死への恐れからの自由
- 人や悪魔への恐れからの自由
でも、主イエスが与えてくださる自由は、単に何々からの自由というだけではありません。何々への自由という積極的な自由も意味しています。たとえば、
- なりたい自分になる自由
- なりたい自分になろうとする自由
- 一人一人が個性を発揮しつつも主イエスにならって生きる自由
- 誰にも妨げられることなく、真実、信仰、愛を表現する自由
- それが真実か虚偽か、有益か有害かを自分で判断する自由
- 自分で道義的な判断を行なう自由
そうなんだ〜、ぼくだけでなくみんなにもキリスト者の自由を手に入れてもらいたいです
わたしもそう思ってこのブログを書くことにしたの。
でもキリスト者の自由は脅かされることもあるのよ
それはどういうことですか
キリスト者の自由が脅かされる
使徒パウロは小アジアに位置するガラテヤ地方の信徒たちに宛てた手紙の中でその挑戦について次のように書いています。
彼ら[潜り込んで来た偽の兄弟たち]は、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。
ーガラテヤの信徒への手紙2章4、5節、新共同訳
使徒パウロは、仲間の信者を支配しようとする偽の兄弟たちによってキリスト者の自由が失われる事態を重く見ました。それもそのはずです。キリスト者は、 “さやの中の豆 “のようではなく、庭に咲く色とりどりの花のように、個性的で、多彩であるはずだからです。
……💧
ではなく
のびのび♪
キリスト者の自由を受け入れる人は、マタイによる福音書に記されている主イエスの次の言葉の真実さを実感するはずです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」
ーマタイによる福音書11章28ー30節、新共同訳聖書
キリスト者の自由をテーマにした書籍
ここに、キリスト者の自由をテーマにした書籍を2冊紹介したいと思います。著者のマルティン・ルターもレイモンド・フランズも主イエスが与えてくださったキリスト者の自由のために闘いました。かつて “さやの中の豆”だったわたし。この本を読んで多くの気づきがありました。
キリスト者の自由 聖書への序言 マルティン・ルター著
「キリスト者の自由」は福音主義の信仰の真髄を明らかにしたもので、ルター(1483 – 1546)のいわゆる宗教改革的論文中の珠玉の1篇である。少著ではあるが、ここには「キリスト教生活の全体」が含まれている。同じく改革思想史上の基本文献として、ルターが全生涯をかけてなしとげたドイツ語訳聖書の序言3種を収めた。
In Search of Christian Freedom by Raymond Franz
Former Member of the Governing Body of Jehovah’s Witnesses
真のキリスト教にとって自由は極めて重要です。キリスト教の自由が蝕まれ始めたのは2、3世紀のことであり、それが今日でもどのように起こり得るか、また実際に起きているのでしょうか。そして個人の良心や考えが侵されるのをどう食い止めるのでしょうか。組織への忠誠心、戸別訪問、排斥、輸血、その他多くの教えについて論じます。
2冊目の書籍は無料でダウンロードできます。残念ながら日本語訳はまだありませんが、わたしはDeepL翻訳ツール(無料版)を使って読みました