わたしは40年間、キリスト教系の某宗教団体(以下、組織)に所属していました。この記事では、そんなわたしがキリスト者の自由を手に入れるためにしたことを短く振り返ってみたいと思います。
聖書の教えと組織の教理とを切り離す
わたしは組織の教理を聖書の教えと信じて、この二つを長く混同していました。それで、聖書の教えと組織の教理とを切り離す必要を感じ、当時まだ組織に所属していましたが、以下のことを始めました。
- 他の聖書翻訳も利用する
- テキスト書からでなく聖句から学ぶ
- キリスト教の歴史を知る
- 組織の歴史を知る
- 仲間と距離を置く
他の聖書翻訳も利用する
組織に所属していた40年間、わたしは組織が一貫して翻訳・出版した聖書を、聖書通読、聖書研究、また教会1での集会に用いていました。ただ、その聖書翻訳が組織の体質や教理に少なからぬ影響を受けていることに気づき、聖書の教えを組織の教理から切り離すためには他の聖書翻訳も利用してみる必要があると感じました。
日本語の聖書翻訳はいくつもあります。代表的なものとして、新共同訳、口語訳、文語訳、新改訳、フランシスコ会訳があります。どの聖書翻訳にするか迷うなら、教文館公式サイトの“聖書の選び方”講座シリーズの特に2時限目「翻訳の違いについて」が助けになると思います。わたしの書棚には今のところ、新共同訳、新改訳、フランシスコ会訳の3冊が置いてあって、個人の聖書通読、聖書研究に用いています。また、新共同訳と口語訳は無料聖書アプリYouVersionで利用可能です。聖書翻訳は訳者の個性・思想が反映されることがあるため、一つではなく複数の聖書翻訳を利用することをぜひおすすめします。
他の聖書翻訳も読んでみてどうでしたか
正直、新鮮でした。これまで読んでいた組織の聖書とは、受け取るメッセージがだいぶ違うことがあるんです。これはたぶん、組織の体質や教理が彼らの聖書に強く反映されているためでしょうね
なるほど、彼らの聖書だけを読んでいたら気づかなかったことですね
テキスト書からでなく聖句から学ぶ
わたしが通っていた教会では、組織が準備したテキスト書を週ごとに学ぶプログラムがありました。信者たちは前もって自宅で予習しておくように勧められていたので、予習の際にわたしは聖書の教えと組織の教理を切り離すために以下の工夫をしました。
テキスト書を読む前に、そこに引用・参照されている聖句をすべて拾い出して、丁寧に読みました。場合によっては聖句の前後の文脈を読んだり、書かれた年代や場所を調べたりもしました。それから、テキスト書のタイトルや見出しに照らし合わせて、これらの聖句から何が導き出せるかを考えました。それから初めてテキスト書の本文に目を通すという感じです。
それで何か分かりましたか
そうね〜、聖句の適用の仕方に違和感を感じることが少なからずありましたね。つじつまが合わない時は、教理を聖句に合わせるべきなのに、逆のことをしているように思えてね
そうしているうちに、わたしは組織から提供されるものをこれまで思考を経ないで受け入れていたことに気づきました。それで、使徒パウロと使徒ヨハネがそれぞれの手紙に残した次のアドバイスに従うことにしました。
すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。
─テサロニケ第一5:21, 新共同訳聖書
愛する人たち。だれかが、「これこそ神の教えです」と言っても、それをうのみにして信じてはなりません。まず、それが確かに神から出たものかどうかを試しなさい。多くの偽教師があちこちに現れているからです。
─ヨハネ第一4:1, リビングバイブル
キリスト教の歴史を知る
わたしが所属していた組織は、歴史が200年にも満たない比較的新しい宗教団体でした。キリスト教が発足してすでに2,000年経っているにもかかわらず、わたしが知っているキリスト教の歴史と言えば、聖書に記載されている1世紀のキリスト者の歴史を除けば、組織についての100年かそこらの歴史がほとんど。わたしはキリスト教の歴史をもっと学ぶ必要を感じました。
学んでどうでしたか
学ぶものが多いです! その中でも、わたしにとって大きな収穫だったことをお伝えしますね
キリスト教の歴史を知るにつれて、わたしは使徒パウロが書いたガラテヤの信徒への手紙がいかに重要であるかに気づきました。この手紙はキリスト者の自由をテーマにしており、その中で使徒パウロはこう書いています。
彼ら[潜り込んで来た偽の兄弟たち]は、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。
─ガラテヤの信徒への手紙2:4, 5, 新共同訳聖書
当時のガラテヤ地方の教会には、キリスト者の自由を付けねらって潜り込んで来た偽の兄弟たちがいて、使徒パウロはキリスト者の自由を守るために必死に闘わなければなりませんでした。1世紀に始まったキリスト教の歴史は、この両者、つまり「キリスト者の自由を付けねらう偽のキリスト者」と「キリスト者の自由を愛し、大切にし、守るキリスト者」が織りなす歴史とも言えるのではないかと、わたしは思います。
キリスト者の自由をつけねらう偽のキリスト者たちはやがて支配的な教会組織へと変貌しますが、キリスト者の自由を守るための個々のキリスト者の闘いはキリスト教の歴史を通じて続けられており、ガラテヤの信徒への手紙が書かれた1世紀当時と同様、それが争点になっていることが実に多いのです。
キリスト者の自由については、「キリスト者の自由とは」という記事をどうぞ参考になさってくださいね
また、キリスト教の歴史について分かりやすくまとめた動画のリンクを以下に貼っておきますので、興味のある方はぜひご覧ください。英語ですが、無料のYouTube動画の自動字幕起こし及び自動翻訳アプリを使って日本語の翻訳・字幕を表示させることができます。
🎥 キリスト教の歴史(2000年)| Full Movie | Dr. Timothy George | Mona Hurlbert Fisher
このサーベイコースは、キリスト教の伝播における重要な出来事を垣間見て、キリスト教の歴史に大きな影響を与えて世界の歴史を形成した偉大な人物を紹介することで、あなたの好奇心をさらに刺激することを意図しています。
キリスト教の歴史を学ぶのに助けになったものはほかにもあります。興味のある方は、「リタおすすめ 書籍一覧」の「キリスト教の歴史を学べる書籍・動画」をどうぞご覧ください。
組織の歴史を知る
キリスト教の歴史を学んでいくうちに、組織の歴史も改めて調べてみる必要を感じました。2,000年に及ぶキリスト教の歴史全体の中に組織が占める位置について組織に教わったことに違和感を覚えたからです。
組織の歴史を探っていくにつれて、組織が発行した初期の出版物を含めて、組織に不都合な情報がわたしたちに隠されている、あるいは真実を混ぜた嘘が教えられていることに気づくようになりました。わたしが教わった組織の歴史は、組織に都合の良い情報だけを寄せ集めた単なる歴史物語に過ぎないように思えました。最初は愕然としましたが、事実は事実として受けとめるしかありませんでした。
主イエスは、偽善に気をつけるように弟子たちにこう言われました。
覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。
─ルカによる福音書12:2, 新共同訳聖書
これ以降、わたしは組織に教わることを何でも鵜呑みにせず、事実関係を確認したり、自分で考えて判断したりするようになりました。
仲間と距離を置く
わたしが所属していた組織では横、つまり仲間とのつながりがとても強く、わたしは仲間の圧力を絶えず感じていました。中には個人の意志を尊重してくれる人もいましたが、それは少数で、多くは組織と一体化してしまい、組織に信仰を働かせて従うようにさまざまな圧力をかけてきました。わたしは徐々に、自分も仲間も組織の所有物になって自由に動けなくなっていることに気づくようになりました。
そんな息苦しさのなか、中島幸子著『マイ・レジリエンス〜心の傷 トラウマとともに生きる〜』という本に出会い、DVをはじめとする人間関係における暴力について学びました。
えっ、暴力ですか?
はい。暴力と言うと、身体的暴力を思い浮かべることが多いかと思います。でも、それ以外にもさまざまな形態の暴力があるんですよ。精神的暴力、性暴力、経済的暴力なんか、そうですね
なるほど
暴力の形態はさまざまでも、その根底にあるものは同じです。それは相手を支配することです
暴力は人間関係における力の不均衡から生じます。力の優っているほうがその力を使って相手を支配しようとすれば、それは暴力による支配の試みです。でも、それに気づかないで支配を受け入れてしまうと、力の弱いほうは強いほうにだんだん呑みこまれてしまい、最終的には一体化して、その関係から抜け出すことが難しくなってしまいます。
この本の著者である中島幸子さんご自身もひどいデートDVを受けた体験の持ち主です。この本については、本質的にとても大切なことが書かれているので、また追って触れたいと思います。
人間関係のあるところならどこでも生じうることを考えると、他人事ではないですね。ところで、リタさんは組織にどのように支配されてきたと感じておられるんですか
そうですね、ひとことで言うと「飴と鞭による支配」かなと思っています。
組織の提案どおりにすれば、仲間に褒めてもらえたり、教会の中で責任のある立場につかせてもらえたりするけど、そうでなければ、そうしたものは当然もらえないし、下手すると叱咤激励されたり助言されたり、挙げ句の果ては責められたりなんてことも…😅
・・・💧
いや〜、我ながらよく生き延びたと思います
わたしは幸い、組織と一体化まではしていませんでした。それだから、仲間の圧力に抵抗する気持ちがいつもどこかにあったんだと思います。組織の中にこのままどっぷり浸かっていると、自分が苦しくなるばかりでなく、主イエスが与えてくださったキリスト者の自由を軽んじることにもなると思ったので、仲間と距離を置く必要を感じました。横との関係よりも、上との関係、つまり天のお父さんと主イエスとの関係を大切にするように意識的に努力しました。
どうでしたか?楽になりましたか?
はい。仲間の圧力を感じることがグッと減り、気持ちも楽になりましたね。
まあ、褒められることも少なくなりましたが
マイ・レジリエンス―トラウマとともに生きる 中島幸子
耐え難いうつ、PTSD、解離…。パートナーからの暴力(DV)から逃れた後もつづく生き難さ。深い傷を抱えながら生き抜く著者からのメッセージ。
組織を出た今も、組織にいた頃の思考パターンが残っていると感じることがあります。そういう時は、それが組織によって植えつけられたものなのかを吟味し、主イエスの教えに沿っていないものは捨てるという作業を繰り返しています。(「ステレオタイプに向き合う」という記事もどうぞご覧ください)
- 「教会」という言葉は、ギリシア語の「エクレシア」を日本語に訳したものです。 この「エクレシア」という言葉は、「人々の集い」を意味しています。 ↩︎
このブログの目的はある特定の宗教団体を糾弾することではありません。キリスト者の自由を脅かす宗教団体はいくつもあり、その代表例として世界平和統一家庭連合(旧統一教会)、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)、ものみの塔聖書冊子協会(エホバの証人)が挙げられます。