「聖句について考察する」のシリーズは、あなたの個人研究に役立てていただくことを目的に始めました。このシリーズでは、テーマを定めて、そのテーマに直接関係する聖句を列挙します。それらの聖句について考察して、そのテーマに関連して学べたことをご自分なりに整理していただければと思います。このシリーズがあなたの聖書研究の一助になることを願っています。
破門とは
大辞林第三版よれば、破門とは「信者を宗門から排斥1すること」です。中世キリスト教の教会組織で盛んに行われていましたが、今日でも一部の教派において行われています。
排斥について掘り下げて考える
古今を通じて排斥は誤用されてきました。そのような誤用を避けるためにも、1世紀の教会における排斥がどのようなものであったのかを掘り下げて考えてみましょう。
その手掛かりとなるのが、コリントの信徒に書き送られた使徒パウロの手紙です。
コリントの信徒への手紙一5章1-13節をまず読んでみよう
どんな人が排斥の対象か
わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。
─コリントの信徒への手紙一5:11, 新共同訳聖書
どんな人が排斥の対象か気づいたかな?
それは以下のような悪行を現在習慣にしている信者です。
- みだらな者
- 強欲な者
- 偶像を礼拝する者
- 人を悪く言う者
- 酒におぼれる者
- 人の物を奪う者
使徒パウロがここでキリスト者と称する人で、過去のある時期に悪行を犯したことがある者について述べているのでないことは明らかです。キリスト者と称する人で、悪行を現在犯している者について述べているのです。一度だけ酔っ払ったからといって、その人は「酒におぼれる者」になるでしょうか。そんなことはありませんよね。むしろ、繰り返し酔っ払う人のことを、わたしたちは「酒におぼれる者」と言うのではないでしょうか。
排斥された人にどう接するか
パウロが「つきあうな」と言ったのは、親しい付き合いをやめることであって、忌避2のように挨拶も話もしないということではありません。(この点については「忌避はなぜ間違っているか」をご覧ください。)また教会3が個人レベルで自発的に応じることを求めたのであって、集団としての教会に課したのでもありません。それはパウロがコリントの信者に述べた次のこと、つまりその人には教会の「多数の者から受けたあの罰で十分」であり、その多数によって赦されるべきであると述べていることからも分かります。これはつまり、パウロの求めに応じなかった人が少数いたことを示唆しています。(コリントの信徒への手紙二2:6-8)
忌避はなぜ間違っているか
もし排斥された人に挨拶も話もしてはならないとしたら、使徒パウロがテサロニケの信者に書き送った手紙の次の勧告をどう扱ったらいいのでしょうか。
もし、この手紙で私たちが述べていることに従わない人がいれば、その人に特に注意し、交友を持つのをやめなさい。そうすれば、その人は恥じるようになるでしょう。それでも、その人を敵と見なすのではなく、兄弟として訓戒し続けてください。
─テサロニケ信者への手紙二3:14, 15, 新共同訳聖書
ここで議論されている扱いは、先ほどのコリント信者への手紙一5章9-11節で議論されている扱いと異なるのでしょうか。いいえ、そうではありません。というのも、テサロニケ信者への手紙二3章14節の「交友を持つのをやめなさい」に使われているギリシャ語の表現syn·a·na·miʹgny·sthaiは、コリント信者への手紙一5章11節の「つきあうな」に使われているギリシャ語の表現と同一だからです。
ですから、コリント信者への手紙一5章とテサロニケ信者への手紙二3章のどちらの場合も、キリスト者はそこに挙げられているような悪行を犯している信者との交友をやめるように個人レベルで促されているのです。それは悪行を続ける信者が恥いるためです。それが使徒パウロの助言であり、それ以上でもそれ以下でもありません。
交友はやめてもその人を兄弟として訓戒し続けるんだね
でもマタイによる福音書18章15-17節でイエスは、罪を犯した兄弟が教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさいっておっしゃっていますよね。
そうだね。でも、だからと言ってなぜ忌避していいことになるのかな?
考えてみてほしんだけど、当時、異邦人や徴税人を忌避していたのは誰だったかな?イエスかな、それともユダヤ人の宗教指導者かな?
うっ💧そう言えば、イエスは徴税人と食事をなさいましたね。
そのとおり。まさにその理由でユダヤ人の宗教指導者から非難されたんだよね。じゃあ、わたしたちは誰の手本にならうかな?
1世紀の教会における排斥の誤用
ヨハネの手紙三には、不当な理由で兄弟たちを教会から追放していたディオトレフェスという名の信者のことが記録されています。
指導者になりたがっているディオトレフェスは、わたしたちを受け入れません。だから、そちらに行ったとき、彼のしていることを指摘しようと思います。彼は、悪意に満ちた言葉でわたしたちをそしるばかりか、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。
─ヨハネの手紙三9-11, 新共同訳聖書
ディオトレフェスは何と、自分が気に入らない信者を受け入れないばかりか、それらの信者を受け入れようとする人を教会から追放することまでしていました。このような排斥の誤用は今日でも一部の教派に見られ、それによって苦しんでいる人が大勢います。願わくは、ディオトレフェスのような人たちの仲間に加わらないようにしたいものです。
ディオトレフェスが犯した過ちをいくつ拾い出せたかな?