律法主義とキリスト教

聖句について考察する

「聖句について考察する」のシリーズは、あなたの個人研究に役立てていただくことを目的に始めました。このシリーズでは、テーマを定めて、そのテーマに直接関係する聖句を列挙します。それらの聖句について考察して、そのテーマに関連して学べたことをご自分なりに整理していただければと思います。このシリーズがあなたの聖書研究の一助になることを願っています。

律法主義とは?

律法主義とはユダヤ教の聖書(キリスト教でいう旧約聖書)の律法1を厳しく守る立場のことです。ユダヤ人は律法を守ることを選民、つまり神から選ばれた民族の条件と考え、信仰と生活の両面で律法を自ら厳格に守ることを義務づけました。選民思想と律法主義はユダヤ教の大きな特色です。

選民思想と律法主義は西暦前6世紀に、ユダヤ人がバビロン捕囚という民族的苦難を体験する中で強まりました。ユダヤ人は各地に会堂(シナゴーグ)をつくり、旧約聖書を読みながら信仰を守りました。その章句を巡る注釈・解釈として受け継がれていったのがトーラ―です。そして、イエスの時代までに、ユダヤ人の日常生活の一つ一つの動作はトーラーによって支配され、ユダヤ人はそれを一点一画に至るまで実行するように努めました。

イエスはなぜファリサイ派の人々を非難なさったか

ファリサイ派2に象徴される律法主義をイエスは非難なさいましたが、それはなぜでしょうか。

考慮する聖句

マタイによる福音書12章1-14節

マタイによる福音書15章1-9節

マタイによる福音書23章1-36節

ルカによる福音書18章1-14節

フクちゃん
フクちゃん

ファリサイ派の教えや見方をいくつ拾い出せたかな?

律法主義と1世紀のキリスト者

イエスはご自分の弟子たちに次のような忠告をお与えになりました。

ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種[教え]に注意しなさい。

─マタイによる福音書16章11, 12, 新共同訳聖書

にもかかわらず、ユダヤ教の律法主義は1世紀の教会3に入り込みました。当時のキリスト者は主イエスの忠告に従って律法主義とどう闘ったでしょうか。自分が1世紀当時の教会にいると想像してぜひ読んでみましょう。

考慮する聖句

使徒言行録11章1-18節

使徒言行録15章1-21節

ガラテヤの信徒への手紙2章1-14節

フクちゃん
フクちゃん

自分が1世紀当時の教会にいると想像して読んでどうだったかな?

律法主義と今日のキリスト者

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません。

─ガラテヤの信徒への手紙5:1, 新共同訳聖書

ユダヤ教の律法主義は今日でもキリスト者の自由を脅かす敵です。

一部のキリスト教団体は、律法主義の精神に染まり、聖書の章句を巡って独自の注釈や解釈をし、それをいわば“トーラー”としています。信者の日常生活の一つ一つの動作はその“トーラー”によって支配され、信者はそれを一点一画に至るまで実行するように努めなければなりません。主イエスの犠牲の死によってモーセの律法だけでなくトーラーや律法の概念そのものから自由にされたのに、再びその奴隷になってしまうとすれば、それは本当に残念なことです。キリスト教に入り込んだ律法主義の精神にキリスト者一人一人が注意したいものです。

フクちゃん
フクちゃん

あなたは律法主義の精神をいくつ挙げられるかな?

  1. 律法とは「モーセ五書」、すなわち、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を指します。 ↩︎
  2. パリサイ派とも言います。その名には「分離した者」という意味があり、律法の本質を守らない人間と自らを分離するという意味合いがあります。 ↩︎
  3. 「教会」という言葉は、ギリシア語の「エクレシア」を日本語に訳したものです。 この「エクレシア」という言葉は、「人々の集い」を意味しています。 ↩︎