「聖句について考察する」のシリーズは、あなたの個人研究に役立てていただくことを目的に始めました。このシリーズでは、テーマを定めて、そのテーマに直接関係する聖句を列挙します。それらの聖句について考察して、そのテーマに関連して学べたことをご自分なりに整理していただければと思います。このシリーズがあなたの聖書研究の一助になることを願っています。
反キリストとは?
反キリストについてヨハネの手紙二はこう書いています。
こうした者は人を惑わす者、反キリストです。・・・家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。そのような者に挨拶する人は、その悪い行いに加わるのです。
ヨハネの手紙二7, 10, 11, 新共同訳聖書
では、具体的にどのような人が反キリストなのでしょうか。
考慮する聖句
ヨハネの手紙一2章18-27節
ヨハネの手紙一4章1-6節
ヨハネの手紙二4-11節
反キリストの特徴をいくつ拾い出せたかな?
焦点となっているのが「キリストの教え」であることに気づいたかな?
挨拶とは?
先ほどのヨハネの手紙二10, 11節をもう一度ご覧ください。そこには反キリストに挨拶してもならないとあります。これは「こんにちは」というようなありふれた形式的な挨拶もしてはならないという意味でしょうか。
ここで使われているギリシャ語の動詞khaireinは、文字通りには「喜んでいる」という意味で、「平和があるように」という意味のヘブライ語のshalomに匹敵します。これは単なる挨拶ではなく、個人的あるいは社会的な好意や受容、さらには権威の承認を表明するのに使われました。このことを踏まえて、いくつかの翻訳はここを「挨拶」ではなく、「歓迎する」とか「励ます」とか表現しています。一例として、リビングバイブルではこうなっています。
絶対に迎え入れてはいけません。まして、彼らを励ますようなまねは、いっさいやめなさい。そんなことをすれば、自分から悪の仲間入りをするはめになるのです。
─ヨハネの手紙二10, 11, リビングバブル
キリスト者が反キリストにしてはならないことは何かな?
それは「こんにちは」とか「ごきげんよう」とかいった簡単な挨拶をしてはならないのではなくて、その人やその大義を受け入れ、賛同し、好意や成功を祈るような挨拶をしてはならないということです。そのようにして「歓迎する」または「励ます」なら、「自分から悪の仲間入りをするはめになる」と、ヨハネの手紙は述べているのです。いっぽう、単に話しかけるだけなら、受容や同意、好意を意味しません。それは人が何を言うかによって決まります。
その人に反論したり、説得してその間違った考えを確信させたりしても、その人が行う悪事の仲間入りすることにはならないよね?むしろその逆で、そうすることがキリスト者の務めであることがイエスとその使徒たちの手本から分かるよ。
ところで、1世紀当時のキリスト者の間ではどんな挨拶が交わされていたのでしょうか。
考慮する聖句
ローマの信徒への手紙16章16節
コリントの信徒への手紙一16章20節
コリントの信徒への手紙二13章12節
テサロニケの信徒への手紙一5章26節
ペテロの手紙一5章14節
つまるところ、こういう挨拶を反キリストにしてはいけないということだよね?
聖句の誤用
一部の宗教団体は、悪行を悔い改めない人や脱会した人を反キリストと同様に扱います。しかも、「こんにちは」という簡単な挨拶さえしてはならないと教えます。いわゆる、忌避1です。
この問題については「排斥とは」という記事で扱っているので、ぜひ見てね
- きらって避けること ↩︎